読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

農学と数理科学の間、あと書評、英語日記

農学と数理科学をお勉強しております、書評は様々なジャンルについて気ままに書きます。英語の勉強として英語日記に挑戦します。趣味は、物理学、数学、歴史、哲学、芸術です。

『ウィーン愛憎 ヨーロッパ精神との格闘』(中島義道、中公新書)

著者の中島義道氏は、哲学者、特にカント哲学、時間論、自我論が専門とのことである。

中島氏は、闘うヘンクツ哲学者として、一部界隈で有名な人物である。

実際のところ、私も氏の著書を愛読しており、『善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学』、『カントの人間学』、『『純粋理性批判』を嚙み砕く』、『ヒトラーのウィーン』、他多数を読んだことがある。

エッセーから哲学書までさまざまな種類の著書がある中島氏だが、この『ウィーン愛憎』は氏の文壇デビュー作である(と記憶している)。

本書では、学士号2つ修士号1つの異色の経歴を持つ中島氏がウィーンへ単身私費留学した際の、悲喜こもごもを氏特有の魅力的かつ突き放すような文体で描いたものである。

まあ悲喜こもごもといっても、本書で描かれるのは殆ど悲しい(寧ろ滑稽な?)体験談ばかりである。

本書で描かれるウィーンという都市とそこに暮らす人々は、とても頑迷であり強固であり傲慢であり、どこまでも個人主義的であり利己主義的ですらある。

しかしながら、そんな彼らはある意味で、近代ヨーロッパ精神を体現する存在でもある。

それに対して、我らが闘う哲学者たる中島氏は、敢然と立ち向かっていくのである。

具体的には、家賃交渉や大学事務局との闘い、職場である日本人学校での英国人教師との諍いなどである。

中島氏ならではの鋭敏な感覚(もちろん過敏ではない!)は、ウィーンで様々な違和感を氏に引き起こす。

例えば、ヨーロッパ人が日本人が傲慢であるとの言論をしていることに対しては、

「ヨーロッパ人の日本人の言動に対する非難には、現今の日本人が自分たちと対等の意識を持っていることに対するいらだちという要素が、かなりの比重を占めていることを見逃してはならない」と、ヨーロッパ人がごく自然に行う日本人に対しての軽蔑や差別意識を見逃すことは無い。

一方で、「私はウィーンでどれほど見てきたことであろう。日本人団体のスープをすする轟音に身震いするような嫌悪を示す在欧経験の長い日本人が、ヨーロッパ人がにぎり鮨を箸でグシャグシャに崩して食べるのをほほ笑んで眺めているのを。」

と鋭く冷酷に、インテリ日本人の無意識的なヨーロッパへのコンプレックス、引いてはヨーロッパ文化は高級な文化であり、かつ日本文化は低級な文化であり、そのヨーロッパ文化に(平均的日本人と比較して)精通している自分は高級な存在であるという歪んだ自尊心を全くもって正当に射貫いている。

私は彼のこのような感覚がとても好きである。

この感覚は彼が物事を常に相手の側に立って考えることができること(これは相手を傷つけないこととイコールではない!)を示しており、彼の知的鋭敏さや多面的な思考法を証左である。

自分の言葉や行動が相手を傷つける可能性を深く自覚しながらも、その言動を行うことに自分の思考の結果、正当性を感じるならば、その言動を行い、その言動に責任を持つ。

このような態度が(少なくとも彼の著書を読む限りでは)彼にはあると思うし、私はそのような態度が誠実な態度であると思う。

ウィーンにおける悲劇かつ喜劇の体験談は面白いが、その端々に見える彼の公平さを保とうとする誠実さが本書の魅力であると感じた。

勿論、彼の語り口は、客観的に突き放したような文体であり、人の心を抉るのには十分なものがある。

それは彼ができる限り真実を語ろうとし、その真実が残酷だからであろう。

本書でもウィーンにおける日本人社会の階級制(大使館職員>企業社員>・・・>私費留学生!)や日本人のヨーロッパ崇拝、ヨーロッパ人のアジアへの差別など語るに苦しい真実がずらずらと連なっている。

苦しみながら真実を欲し、それを語ることが哲学であるならば、彼は生粋の哲学者であるといえよう。

その意味では、本書は哲学者中島義道を形作ったウィーンでの生活を覗き見できるようなところがあるため、中島義道ファンには必須の本かもしれない。

個人的な感想であるが、この本での中島氏は、様々なポカ(航空券をなくす、海外でバッグを見知らぬ他人に預けるなど)をやらかしており、凄まじいまでの要領の悪さを示している。

エッセーや哲学書などでの鋭い彼しか知らない私にとっては、彼のかわいらしい?一面が見られ、なかなかに興味深かった。